ドローンから見下ろすのは私(改)

「お袋が言うんだよ、誰かが盗聴してる。財布からお金を取っていくって」

夫は2週間おきに実家へ義母の介護に行っている。一度行くと1週間は帰ってこない。

前回行った時は「俺の顔もわからなくなってきてる。いよいよヤバいかも」と不安げだった。

認知症が進んでいるようだ。せん妄がひどくなっている。

「誰かが覗いてる、って言うんだけど誰もいないんだよ。怖いよ」

夫が怖がっているのは義母の妄想か、せん妄が示す老いなのか分からないけれど、あの気丈な義母が別人のように不安感を訴えるなんて、気が滅入った。

 それにしても、なぜ精神が危うくなると。盗聴されているとか見張られているような感覚に陥るのだろう。

義母も同じことを言うのだなと不思議に思った。

 

わたしたちは生まれた時から自分の眼というカメラを通して世界を見ている。

それは一人称の世界「主観視点」だ。

成長して他者との関わりが出てくると、自分以外の視点から自分を見るカメラを獲得する。

これが三人称の視点「客観視点」。

二つの視点の意識のカメラを切り替えながら生活している。

日本人は同調圧力が強いのは「客観視点」が優勢なのだからでは。

自分の目で見たものよりも、周りの反応を重視し、常に自分を監視している。

しかし、その「客観」は、結局は主観カメラから見た視点でもある。

わたし達が自己意識から離れた思考を獲得することは本当に難しい。

それでも自分を外側から見たいと願う。

内なる自分の意識と他者からの視線を一致したいと切望する。

 

路上の監視カメラ映像を初めて見たとき、このアングルには見覚えがあると感じた。

多分、わたしの潜在意識の中には、この角度から自分を見ているカメラがあるのだ。

つかず離れずの距離から自分を見下ろし、周囲の反応を窺っている。

頭上から見下ろす視点、それはドローン映像にも共通する感覚だ。

でも、どこまでも上昇していくカメラ視点は、神の視点でもある。

精神の安定を失ってしまった人々は、この「客観」カメラのコントロールが効かなくなってしまったから、見張られている感覚に陥るのでは、とふと思った。

 

内からも外からも

見ているのは、自分だ。