エルピスの違和感

新年会を兼ねて集まった父母会での席で、去年話題になったドラマの「サイレント」を私だけが見ていなかった。

「エルピス」は見たよと言ったら、私だけしか見ていなかった。

こういうとき、世間一般と自分自身の感性のズレを感じる。

でも仕方ないか、ともはや諦観の境地。

 

昨年見たドラマのほとんどは、配信系の韓国ドラマだった。

地上波ドラマに年々乗れなくなっている。違和感を感じて見続けられない。

それは昨年話題になった「エルピス」も同じで、ストーリーは面白かったが女子のキャラクターに共感できなかった。

設定が2017年から19年のテレビ局が舞台で女子アナという職業を考えれば、「私に向かない」のは当然だったけど、韓国ドラマのおかげで違和感の中枢が何かを感じ取れた気がする。

 

日本人は自己主張が弱い。同調圧力が強く、逸脱を許さない。

「エルピス」はその呪縛から抜ける物語だったけど、長いものに巻かれる女子アナの描写に自分の過去を思い出したりして、複雑な気分だった。

現実だったら、報道現場を干された女子アナはテレビ局を辞める。恋人が同じ局内にいたら絶対辞めているだろう。

私が地上波ドラマに馴染めないのは、女性の行動や心理に、男性に都合の良い期待や展開を感じるからだ。

韓国ドラマを見始めたばかりの頃は女性の気の強さやポテンシャルの高さに驚いたけど、見続けていると、そっちの方が自然だと思えてくる。

逆に日本の地上波ドラマで描かれる、自己主張控えめで純粋で献身的な女性像(朝ドラの主人公のような)に違和感を覚える。

これは刷り込みではないのか?洗脳なんじゃないの?

だからこそ、エルピスは最終話での逆転が光るわけだが、そこに至るまでに操り人形化した女性を見せられ、後輩の取材成果を横取りしたようにも受け取れて、計算高い女性のようにも見えて残念な気分が残った。

男性が考える「女子アナ」の思考と存在感みたいなものが、ドラマのところどころでひっかっかり気になったのだ。

メディアの責任とか権力におもねった公共性の欠如とか、提示したテーマには今までになかったものがあり、エンターティンメントとしてだけではない大義があったドラマだと思う。

しかし、そのストーリー展開のために従来表現の「女性」性が利用された感じがして、設定やキャラが古臭く感じた。

脚本は渡邉あやさんだけど、ちょっと歯切れが悪かった気もする。

だって幾ら2017年当時でも、放映予定の保存媒体がビデオテープやらDVDなはずないのでは。

あの頃だってクラウド経由でデータ共有していた。

テレビを見ている中高年世代に合わせて作っているのはわかるが、そこまでリテラシーレベル下げなくてはならないのか…と考えると、日本のドラマが古臭くなるのは仕方がないのかも。

女性のキャラまでもそっちに寄せないと理解してくれないのかと思うと暗澹たる気持ちになる。

 

もう男のために身を引く女はいない。黙ってる女もいないのだ。