「アカデミー賞のハプニング」と「戦隊シリーズ」の功罪

毎年、アカデミー賞アワードはwowowの生中継を見て家族でダラダラするのが、我が家の習わしになっている。

しかし今年は、すっかり忘れていた。だって映画見てないんだもん。

昼過ぎ頃、ふと思いついてテレビをつけてみると、ウィル・スミスが盛大に泣きながらマイクに向かっていた。主演男優賞を取れたので感極まって、という感じではなかった。違和感を感じて同時通訳に耳を澄ました。重大な罪を犯しました…と懺悔のような告白をしているけど、内容が全くわからない。差別発言でもしたのかな、ここのところ多いな〜と、深くは考えなかった。

 

ことの経緯を知ったのは、夕方になってネットニュースを見てからだった。

クリス・タッカーを打ち付けるウィル・スミスは、抑えようのない強い怒りに抗えなかった、とも見える。けれど、静かに壇上に上がる姿は、俳優なだけに正義感に自己陶酔しているようにも見えた。

暴力とは、理性を超えた感情、本能からくるものだと思っている。

暴力はいけないと思うし、これを正当化してはいけないとも思う。そのために人間には理性があるのだから。

しかし当事者になったときに、私は冷静に反論できるだろうか、とも思った。

 

ここのところ、ずっと暴力について考えている。

きっかけは、日曜朝のスーパー戦隊シリーズの新番組を数年ぶりに偶然見たことだった。

今回のスーパー戦隊は、娘がいうには「ポリコレ戦隊」とネットでは言われているという。

ピンクに変身するのがサラリーマン男子だったり、メンバーのうち二人がCGキャラクターだったり、今までの戦隊シリーズとは、一線を隠す新基軸と言われているそうだ。

画面に溢れる賑やかな色彩、CG合成に「いやー進化したねー」と感心するが、おもちゃを売らんがための設定や演出に「大して変わっとらん」感じをも受けた。

気になったのは、今の時代でも戦闘シーンがあることだ。

手下大勢が入り乱れて格闘した後、敵の親玉を五人で攻める団体戦術。

これって卑怯じゃないのかと昔から思っていたけど、まだこの構造、演出なんだ。

先攻されたから何しても良いっていうのはどうなのよ〜

そして最後は巨大ロボットで対決し、戦闘する。今もなのか!

仮面ライダーもそうだけど、最近の傾向は、戦闘は現実ではない別次元、ゲーム空間で行われているという設定、演出になっている。

でも、これもゲームを売るための口実にしか思えない。

リアルな現実ではないという理由づけで責任逃れしているけど、そういうツールを使いたい、戦いたいという願望が透けて見えてしまう。

そして、このTVシリーズがもう、子どもたちのために作られてはおらず、このシリーズを見ている大人を基軸にしていることが分かってしまう。

正義感という世間体に通りの良い言葉をかざして、自分たちの欲望を消費している。

戦闘したい、という欲望。

数ヶ月前、「エターナルズ」を見たときは、ここまで違和感は感じなかった。

私も、戦闘シーンを「お約束ごと」の殺陣と割り切って見ていたし、CGの見事さに見惚れていた。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻から世界は変わった。

暴力は何があってもダメだ、という考えを子供の頃から徹底しないと、結局跳ね返って傷つくことになるのだ、と身に染みて感じている。

ウィル・スミスが咄嗟に暴力で反応してしまったのは、過去の積み重なりから逃れられなかったからだ。

でも、彼はそれを過ちだと言った。分かっているなら変えなくては。

それを断ち切るには、今、変えるんだ。

もう、スーパー戦隊シリーズは役目を終えたのだ。

ヒーローがやってきて、暴力で敵をやっつけてくれることはない。

暴力で戦ってる場合じゃないんだ。

その現実を、私たちはしっかり見るべきだし、子供にも教えなければならない。